kitsune_s.gif きつね祭の由来記 kitsune_s.gif

kitsune_syowa.jpg奇祭として知られる長野県岡谷市の「きつね祭」は、その由来を寛政年間(約200年前)に発すると伝えられ、太田蜀山人の壬戊紀行の中で「山のあなたに見ゆる山は八ヶ岳の峯なり、右の深き谷は湖水の本につきて田なり、このあたりの村の稲荷に狐の嫁入てふ面白き祭ありと・・・」の一節で江戸時代から全国的に紹介されていました。 

この祭行事は、男狐社とされている市内新屋敷区の長塚稲荷と、女狐社の岡谷区お福稲荷の双社から、衣裳をこらした付人の行列が騎乗の花嫁、花婿を守って約2キロの道中を練り歩き、やがて繁華街、中央通りの大辻で挙式する仕来りになっています。この長塚稲荷に祀られてある所は、地名の示すように約1500年前にこの地方を治めていた豪族を葬った塚、即ち、長形古墳のあった遺蹟で、この由緒地として江戸時代の中期訪宝永年間(約290年間)に豊川稲荷を勧請し、伊那街道の宿場として発展途上にあったこの土地の安穏と商売繁盛を祈願したとされています。

お福稲荷は、元文年間(約260年前)の岡谷村新切田開発にあたって五穀豊穣を願って豊川から迎えたもので、文化の頃、お福様と呼ぶ女行者がこの社に籠り盛んに加持祈祷を行なって近郷近在の信仰を集めたので、いつしかこの社名を呼びならわすようになったと伝えられています。

奇祭「きつね祭」の行事が催されるようになった条を調べてみますと、天明年間、全国的に打続いた大飢饉の折、草根木皮をあさり尽くして、餓死者の肉をも奪いあったといわれる惨状の中で、村々相談の上、古来より、実入りの神として霊験あらたかな両稲荷社へ「ご案書」をかけ、「この天災地変を切抜けましたら必ず御両社結びのお礼祭を奉納いたします」と誓願をこめました。かくして暗黒の天明9年間が終って寛政と改元されるや、果然、日本の津々浦々は大豊作の歓喜にどよめく歴史的な年を迎えましたので、長塚、お福両稲荷の氏子一統は、神意に叶う趣向を相案し、ここに当祭礼の発祥をみるに至りました。kitsune_umani.jpg

以来この行事は、毎年盛大に執行され、藩主諏訪家からも幣帛料として、米2石を寄せられたことが記録されています。しかし、この奇祭も神仏混淆の江戸時代の事でしたから、その主導を照光寺で執り行っていた関係上、明治維新の廃仏毀釈の余波をうけて惜しまれながら、遂に一切を中断するに至りました。

この古事にかんがみて、長塚稲荷は製糸業の全盛期であった大正4年に、当時の平野村長塚に20坪を社地として、改めて豊川稲荷を勧請し、社殿を建立して今日に至りました。お福稲荷は、明治期以来、現在の社地附近に、しきりに悪疫火厄が発生して住民を災していましたが、大正末期に稲荷の御神体が水中に埋もれていることを夢枕に告げられた近隣の人々が、数ヶ月間その一帯を捜索したところ、果して関沢川が中央通りと交叉する地点の川底に、これを奉見することができましたので、恐懼して同15年、社殿を建立して安置いたしました。

その後、両社を結ぶ中央通り一帯は、遭遇した数度の火難、病災も最小限に即滅消除し、商工業はますます躍進繁盛の向上線を進んで、名実共に岡谷市の中心街となってきましたので、昭和28年から中央通り連合商業会の催として、報恩感謝の奇祭「きつね祭」の行事を復活して、今後一段と郷土の発展を祈願する運びとなり、例年七月にこれを執行しております。