逸話

■出自

徳本の出自には諸説あるが、桓武天皇の流れを汲む桓武平氏の良兼流の武家である長田氏(おさだ、平治の乱において源義朝を暗殺した長田忠致が著名)の分家の出であるという。(左頁参照)長田宗家で徳川家康の下で戦功をあげ譜代大名となった永井直勝の叔父であったという説もある。

■禅

徳本は幼少期に、当時学問を志すものが一度は僧籍に入ることが一般的だったため、これに倣って禅僧・残夢に師事している。このため禅宗的な宗教思想を身につけ、これを医療にも反映させていたという。また徳本は深山幽谷を跋渉し、奇獣妖怪を退治したともいう。

■傷寒論

張仲景の「傷寒論」(明の医学書、現在の日本の漢方医学の元となる)をとり、好んで水銀、黒鉛、辰砂の入った峻剤(強い薬)の頓服を勧めた。万病は体内の鬱滞によって起るとし、これを散らすため峻剤を用いた。「薬は毒ありて劇しきがよろし」を理念とし、各種の吐剤、下剤、発汗剤を処方した。癩病(ハンセン病など)の治療も手がけ大風子を用いた。また梅毒(感染症)の治療も行い辰砂(水銀化合物)を用い成功した。

■林羅山

(江戸初期の朱子学派儒学者。徳川家康、秀忠、家光、家綱の四代に渡って仕える)徳本は一時、友人・林信時の息子であった若き日の林羅山を弟子として、迎えるもその大器を見抜き、ほかの職に就くように勧めたという。

■葬式

ある日、お葬式をしているところに徳本が通りかかった。「突然亡くなるような人はこの家にはいないはず…亡くなったのは娘さんというが、今一度棺を開けてごらん、あの娘は生きているはずだから」という。うそか本当か棺をあけて娘の脈をはかると、娘は本当に生きていた。そうしてあやうく葬られてしまう命を救ったという。

■将軍秀忠

将軍職をすでに退いていた徳川二代将軍秀忠が重病を患い、御典医たちの手に負えず困り果てていたとき、徳本に白羽の矢が立った。徳本と並び「医聖」と称され畏友でもあった曲直瀬道三、その子息の玄朔が徳本を推挙したという。玄朔も以前に秀忠の病を治したことがあり、その時の殊遇は厚く、江戸城内に邸宅を賜っている。また徳本が甲斐にいた頃、その世評を耳にした家康が徳本を三河へ呼び、熱心に唐瘡の治療法を尋ねたともいう。そして何より無冠の徳本の名声は天下に轟いていた。すでに齢百を数えていた徳本はいつものように牛にまたがり江戸城に登城した。秀忠を一診するや、峻剤を処方した。すると忽ちに病は雲散霧消した。

これを大変喜んだ秀忠は徳本に褒美を遣わそうとしたが、徳本はこれを拝辞して、一服十八文の治療費だけ頂戴すればよいと答えた。それでは気がすまぬ秀忠に押され、徳本はやむなく生活苦の友人に宅地を賜ればと言った。幕府からその友人に与えられたその宅地は長く「徳本屋敷」と呼ばれた。

また徳本が秀忠を診る前、御典医たちが奥の間から猫の足に糸を結びその先を徳本に渡した。貴人の脈は間接的に糸脈で診るとされていた。糸をじっと握った徳本は「この患者には鰹節を食べさせればよい」と言って席を立ってしまったという。御典医たちの意地悪を見破ったのだ。

■洞察力

徳本はかなり達識の医者で、患者が治るかどうかを見越す眼も鋭かったという。
乞われて、一服十八文の薬を与えても、一目患者を見ただけで、いきなり徳本が泣き出したことがあった。「なぜ、お泣きになるのですか?」病人の家族がきくと、徳本は「いまは言えない」といって、逃げるように去った。しばらく経って、病人が死んだ。家族たちは思わず顔を見合わせて話し合った。「徳本先生は、この病人が助からないことを知っていらっしゃったのだ。でも、自分の口からはそれが言えないので、ああしてお去りになったのだ。」この話が伝わると、「徳本先生は、単なる売薬業者ではなく、人間の生死についても深い洞察力を持っている」とその名が高まった。

■甲州ブドウ

徳本は武田家との縁あって甲州にも長くおり、甲斐の徳本とも呼ばれた。また徳本は山野をめぐり薬草を採取しながら研究したため、植物学にも長けていた。
勝沼で甲州ブドウを作り出した雨宮家の子孫が徳本に色々と相談したところ、「作り方によっては大きな利益を得られる」と現在まで続くブドウ棚での栽培方法を考案した。

甲斐国は狭く、土地を有効に使うのには、空に向かって伸びて行くより仕方ない。
徳本は「ブドウを横に植えるのではなく、タテに植えろ」といい、ブドウ棚を用いて作る方法や、つぎ木挿し木を教えた。
また、「ブドウも、もっと多くのいろいろな種を交媒しろ。そうすれば、いろいろな味のブドウができる」「俺が有名なのは、俺の売る薬は全て十八文、という言い方をしているからだ。同じように、おまえたちもどうせブドウを作るからには、ブドウは甲州に限る、と言われるようにしろ。ブドウの名産地は甲州だ、という名が立てば、たとえ同じものでも高く売れる。それが、さらにいろいろな味を持っていると知れば、いよいよ甲州ブドウの名は高くなる」と教えた。

■カリン

信州に入った徳本は、同じ様にカリンの作り方や改良方法を指導した。ところが地元の人で、「あれはカリンじゃない。この地方でマルメロと言ってきた果物だ」と文句をいう者がいた。徳本は笑って、「マルメロでもカリンでもいい。しかし、カリンのほうが響きがいい。そしてカリンは諏訪に限る、信州に限るという評判を立てることが大事なのだ。元の名前が何であろうと、そんなことは関係ない。食べる人たちが、カリンという名前を愛するのなら、その名を尊重すべきだ」と大衆の好むネーミングを大事にするということを教えた。
カリンの砂糖漬は、人々に育まれた逸品である。

■三人の女中

諏訪での晩年のこと、ある日徳本がうちへ帰ってくると、女中が薬の調合法を記してあった帳面を出して、写していた。
徳本がいるのにも気づかずに必死で書き写していたところに徳本が「なにをするのだ」と声をかけたところ、女中は驚いて「申し訳ない」と言った。徳本が、なぜ留守中にこんな薬の調合の帳面を出してきて写していたのか訊くと、女中は「私は江戸の侍医の娘だが、将軍様をなおした徳本は偉いお医者だから諏訪へ行って徳本の調合を盗んでこいといわれて来ました」と答えた。すると徳本は他にも二、三人いた女中を呼び、「おりゃあ乞食医者だが、お前たちこまるちゅから女中においたが、どうもただの家の娘じゃねえと思った。ほじゃあみんなこの帳面を写せ、それから裏へ行って裏の畑に薬用の植物があるから、その種をくれるから江戸へ行って、坪庭を潰してみんなこれを植えろ。ほうして江戸の町の病人をなおせ」こういって女中を帰してやりました。

■お砂糖

姑との確執に疲れ切った嫁が、姑を殺す薬を調合して欲しい、さもなくば自害すると徳本に迫った。そこで徳本は、毒薬と称して粉薬を与えた。嫁は喜んで姑の食事に毎日その粉未を混入する。しかし日が経つにつれ、姑は嫁の優しさにすっかり打ち解けて、近所でも評判の嫁姑の仲になった。こうなると、いたたまれなくなった嫁は、再び徳本を訪ね、「私は何と罪深い女でしょう。あの仏様のようなお姑様を殺そうなんて。先生、どうかお母様をお助けください。」と涙ながらに訴えた。徳本は笑って、「心配はいらぬ。そなたに渡したのは、毒ではなくて砂糖じゃ」と答えたという。

■弟子

約五十人いたといわれる徳本の弟子の徳山は、岡谷で桑などの薬草を栽培し、研究したという。